【神様に】感想を書いた日【なった日】
どうも皆さまこんにちは。ヤマトたかはしです。
今回は最終回を迎えたアニメ、「神様になった日」の感想を書いていこうと思います。
はじめにいいます。私は今作の原作・脚本を務める麻枝准さん(以下、麻枝)のファンです。
初めて触れた作品は「Angel Beats!」で、二回目の出会いはPS2版の「リトルバスターズ!」です。
彼の描く世界、キャラクター、人生観に魅力を感じ、いままでに彼が手掛けてきた作品の多くをプレイ、視聴してきました。
そんなひとりのオタクとして、ここに感想を残したいと思い、キーボードを叩いてます。
どうか最後まで読んでいただければ幸いです。
また、この記事は自身の考えをまとめるためにも書いた節があります。
なので、記事内で段階的な意見の変化があり、簡潔にはまとまっていません。
ご容赦ください。
・目次
- ①率直な感想
- ②異質な主人公
- ③期待外れな急展開
- ④麻枝准らしさ
- ⑤二周目以降の感想
- ⑥三人称視点でのリアリティ
- ⑦舞台装置の乏しさ
- ⑧ひなの陽太に対しての気持ちはいったい何だったのか
- ⑨ひなの父、佐藤歳徳は悪なのか
- ⑩この作品が伝えたかったことは
- 最後に
①率直な感想
最終回を見終わった後、まずはじめに感じたのは
「微妙だったけどだーまえらしいな」ということです。
まずは彼の過去作を少し振り返ります。
麻枝の代表作、「CLANNAD」のヒロインの一人、坂上智代。
彼女のルートの続きを描いた「智代アフター」という作品があります。
智代アフターについて麻枝は
「やりたい放題やった」
「自分が素で好きなモノを書けと言われるとこういうものになる」といった発言を残しています。
個人としての麻枝准らしさ、それが一番詰まっていた作品が「智代アフター」である。私はそう捉えています。
私がプレイしたのは発売当時ではないので、当時の意見はネットで見た程度ですが、これが相当な批判を喰らっています。
実際批判していた人達の意見はよくわかります。
Key作品の歴史をたどる書籍を書いたことでも知られる作家・坂上秋声氏は「智代アフター」を「奇跡の起きなかった『CLANNAD』を描いた作品」と評しています。
まさしくその通りで、それまでのKey作品、ましてや「CLANNAD」の続編でありながらも対極のような存在である作品。それこそが「智代アフター」でした。
これに関して、「期待を裏切られた」であるとか「黒歴史」だとまでいうユーザーもいます。
その反面、衝撃的なシナリオに麻枝の真骨頂だと認めるユーザーもあり、一部ユーザーからは最高傑作だという声もあります。
私個人も、麻枝作品を順位付けするのであれば、「智代アフター」は二番目に好きだといいます。
「神様になった日」の最終回を見たときに、様々なエッセンスから、私はこの「智代アフター」を思い出したのです。
だからこそ、「だーまえらしいな」という感想が頭に浮かびました。
②異質な主人公
「神様になった日」は、他の麻枝作品と異なる点がいくつかあります。
その一つが主人公・成神陽太の存在です。
まず彼が今までの作品群の主人公たちと異なる点。それは「何も抱えているものがない」というところです。
家族の問題も、悲しい過去も、何も抱えていない等身大の主人公が成神陽太でした。
しかし、そんな成神陽太が視聴者側から見て感情移入しづらかったり、やってほしくないことをしでかしたりするキャラなんですよね。共感性羞恥の人とかにもかなりキツいと思います。
この等身大、THE一般人なのに共感できないっていうところがなんとも残念だったように感じます。
一つの原因として考えられるのは、彼の性格と、物語上の彼の目標がマッチしていなかったように感じます。
はじめに言っておくと、僕はこのキャラクターが嫌いではないです。嫌いなシーンは多々ありますが、彼のまっすぐすぎる性格や、周りの人をほうっておけないと思えるところは理解できます。
しかし、だからこそ彼の背景設定と矛盾する。
彼には信念があるものの目標がない。自らがやるべきことを見つけるのは最後にかけての方です。
そもそも彼自身の困難に立ち向かうための精神力の方はもともと高いポテンシャルを秘めている。
だからこそ、ひなに言われたとおりに行動できる。目標を達成できる。
その結果が突拍子の無いものばかりなのでさらに感情移入できないところはありますが、陽太は何かに向かって突き進む力を持っているのは確かなのです。
なのにも関わらず明確な目標、アイデンテティがないために中途半端な存在になっている。それが成神陽太でした。
そして彼がひなと出会い、ひなのやりたいことをの中で様々な結果を残していく。
これが長いギャグパートと言われる前半部分までです。
中途半端な存在のままの陽太と、正体不明のままのひな。
そんな二人の暴走にハマりきれなかった人も多いのではないだろうか。
③期待外れな急展開
話し方の手本として「結論から先に言う」というのがあります。
物語を見るうえでこれをやられてはひとたまりもありませんが、大体のアタリをつけさせるのも暗黙の了解です。
戦隊ヒーローものをみて
「とても強い敵だけど、どうにかしてヒーローが勝ってくれる」
これを望んで視聴者は見ているのです。
なのにもかかわらず
「主人公のレッドは敵に負けたことに限界を感じて実家の和菓子屋を継いだために親子仲は回復しました。」
なんてラストは誰も望んでいないのです。
確かに、それはそれでみたい気もしますが、それをやるなら初めから匂わせとけって話なんです。
なんか話がそれた気もしますが
「神様になった日」はPVから、いやそもそも題名からかなり匂わせていました。
それを見て視聴者はなんとなくのアタリをつけたはずです。
ひなのビジュアル、世界が終わるという設定からある程度のファンタジー要素があるのか。
はたまた第二弾PVの天才ハッカーめいた鈴木少年をみて、SF的な要素があると予想するか。
他にも様々な予想を立てていたはずなんです。
それなのに、世界が終わるにも関わらず繰り広げられる日常(とは言い難いレベルのギャグパート)を続けてしまい、最終的に世界は終わらないし、メインヒロインは先天性かつ治療法がない不治の病を患っていたことが明かされる。
この「智代アフター」を遥かに超えるレベルの予想外の裏切りが、視聴者との間に大きなギャップを作ってしまいました。
今回の作品で一番「やったな」って思ったのは、このひなの病気の事です。
「先天性疾患」かつ「不治の病」。
今までの麻枝が携わっている作品においても病を患っているキャラというのは多くいました。
Tactics時代の「ONE」は最たる例と言える(これは麻枝だけでなく久弥直樹も大きく関わっている)し、「Kanon」の沢渡真琴ルートの後半の精神的に、身体的にも衰弱しているさまは見ている者の心を痛めました。
「AIR」、「CLANNAD」,「リトルバスターズ!」。アニメ作品の「AngelBeats!」「Charlotte」においてもそういった病と闘う者の描写、設定は存在しています。
しかし、そのなかでも先天的なものだと名言されているものはありません。
なのにもかかわらず今作前半の明るい雰囲気の中明かされたロゴス症候群の詳細はかなりの衝撃をもたらし、不快感を覚えた人もいることかと思います。
創作において、自らが産み出したキャラに重い設定を背負わせる行為は簡単なものではありません。
なのでこれは制作側も悩みぬいた結果の設定だというのは信じています。
しかし、そういったものを創作のテーマとして扱っていいのかと思う人もいるともいますし、作品全体の雰囲気としてそれを軽く扱っているような印象を受けやすかったのは事実。
さらに、そういった設定を使うのならばある程度の覚悟をさせて欲しいところです。
日常パートからの緩急で衝撃を与えるというのは多くの作品における常套手段。
しかしながら、その重い展開を「世界の終わり」であると誤認させておいてのこれはあまりにも不意打ちすぎた。
その後、視聴者の心にさらなる追い打ちをかけたのはひなの闘病シーンです。
これもやはり前半のひなの元気な姿がの印象が強いために、相当キツい内容です。
ただそれだけなら私の場合は受け入れることができたでしょう。
前述のとおり麻枝作品では「よくあること」ではあるので。
しかし、そこでもまた異質さを発揮するのが成神陽太。
彼の不器用さを見て思わざるを得なかった。
「やめてくれ」と。
これ以上ひなを怖がらせないでくれ。負担を与えないでくれ。
陽太が感じている精神的負担が大きいのも確かにわかります。
ただ、そもそも前述のとおり陽太に関して視聴者が感情移入しづらく、またプロである養護施設の職員・司波素子に従わない強引なやり方、これがみていてとても不快に感じました。
必死なのもわかるし、焦る気持ち、やりようのない気持ちがあるのもわからんでもない。
ただ、客観的に見て不正解を連発するその姿には怒りさえ覚えた。
あのシーンは完全に鈴木少年と同じ視点になれましたね。陽太はあまりにも無能すぎる。
(てかシーン少ないしかなり異質なキャラなのに鈴木少年が一番感情移入しやすい説ある)
それまで彼が物語の主人公として打ち立ててきた功績はあくまでひなの指示の下であったから。
第7話のひなを乗せたトラックを追いかけるシーンはひなの力を借りてはいないものの阿修羅と一緒でなければいけなかった。
一人になった彼はあまりにも無力でした。
あと第8話について。
ここが成神陽太最大のプレイングミスとなります。
陽太のひなと父親の関係をどうにかしたいといういつものまっすぐすぎる彼の行動でしたが、あの旅行こそがひなの世界を終わらせることに直結してしまった。
鈴木少年が佐藤歳徳(ひな父)と接触するあの時までに陽太とひなが旅行に行かなければ、鈴木少年はひなへと繋がる道へ辿り着けなかったのだから
④麻枝准らしさ
とはいえ、やはりこれは「だーまえらしい」のだ。
今までの私の意見には確かに批判的な部分はあった。しかしそれは果たして明確な失敗点なのか。
失敗点を挙げると言うのなら他の部分ではないか。
サブキャラの掘り下げ方であったり、話数構成等がイマイチではあると思う。
というか話数構成についてはこれまでの二作品からもうあまり期待していなかったが。
むしろ今作はまぁまぁよくまとまっていたとすら感じる。
成神陽太だって「空回り感」は否めないものの、彼を見ていて「悪い人間」だとか「クズ」であるとかそういった感想は出ないだろう。まだ彼は成長途中の子供である。それだけのことなのだ。
また、先ほど触れた予想外、期待外れの展開。
これは視聴作品が多い現代のオタクにとっては期待外れとして終わってしまうものなのかもしれない。
しかし裏を返せばその初見時に感じた先の読めない期待を感じずに見る二週目こそ、この作品を楽しむことができるとも捉えられる。
そしてなにより、重い展開に関してだが。
話の本筋として麻枝がやっていることはこれまでの作品とあまり変わっていない。
コントじみたギャグパート、突拍子の無いことをしでかしてくるサブキャラクター達、前述のとおりの病を織り交ぜた感動ポルノ。
彼のやっていることは何一つ変わっていない。
というか現代の有名な作品にその要素が薄いだけである。
麻枝准はそもそも恐ろしいライターなのである。
彼の原点である「MOON.」のキャッチコピーは「商業ゲームのタブーに挑む」である。
個人的今までで一番狂気を感じたゲームを訊かれればあの「さよならを教えて」を推すが、二番目は「MOON.」だ。
彼の代表的な要素はやはり「泣き」にあると思うが、それは「精神的苦痛」からの解放に基づくものがほとんどであるし、個人的には彼は元々人間の狂気的な部分や、人が苦しむシーンの描写こそ評価に値する。
それだけ重苦しい展開を書くのが長けているのだ。
そして何より。
正直今までだって麻枝作品を初見で受け入れられる人の方が少ないのではないか。
一番広く深く万人受けしている「CLANNAD」だってそうだった人は多いんじゃないか。
「後半感動するから。」「最後まで見ればわかるから。」
そういわれてなんとかアニメ版一期を見終えて二期に辿り着いた人も多いのではないだろうか。
実際私は折れかけた人にこのセリフを言ったことがあるし、それによって見終えたオタクが他のオタクに対して全く同じセリフを使って勧めているのを見たこともあるぞ。
結局のところ麻枝作品はスルメなのだとファンは言う。
初見、最後まで見きって60点くらいに感じられたらいい。
「辻褄合って無くない?」「なんか微妙じゃない?」
感動したけど少し何かのしこりが残る。そんなもんだと私は思う。
二週目三週目でハマれれば良い。
さらに言えば、そのあたりを理解したうえで作ったのが今作なのではないかと思っている。
最終回で、一話冒頭でも流れたひなのメイキング映像が明かされる。
これは、すべての思惑を知ったうえでもう一周見ても楽しめる仕組みになっているとの証明となっている。
というかそれを自然に導入できる仕組みを考えたという意図なら、麻枝がインタビューで語っていた「ギミック」とやらの言葉がしっくりくる気がした。
ということで私は最終回が終わってから何周か見た。
ここからはその感想を書いていく。
⑤二周目以降の感想
二周目はまぁ気持ち、気持ち程度だが軽やかな気持ちで見れた。
世界が終わると知っていたならまぁ延々ギャグパートをやられたって構わない。
むしろひなの元気な姿を見たいと、この思い出作りの夏がずっと続いてほしいとまで思えた。
実際問題この話はひなをどれだけ好きになるかに全振りされていたのかもしれない。
そう考えるとサブヒロイン達の掘り下げが薄いのも仕方ないかなと思うし、1クールでやりきったことも
そして、成神陽太。
まぁこいつは本当にヤバいやつだったな、と。
図書館で騒ぎ出すし、楽器屋通って売り物のピアノで練習するし、細かいところで初見の時よりもだいぶうるさく感じた。
しかし結局感情移入はできないものの、そのまっすぐすぎる性格はやはり嫌いじゃない。
それでもやはり第10話以降はヒリついた。
というか二周目でさらにひなを好きになっている分余計につらい。
ただ陽太に関しても寛容になれる分、少しは評価が変わってくる。
陽太のひなとの接し方に対して「やめてくれ」と思う感情は確かに残っている。
しかしながら「まだ折れるな。頑張れ。」と思う感情が芽生えたのも事実。
初見のときは陽太に対してイライラして仕方なかったが、今思えばよくもまぁめげなかったなというところである。
⑥三人称視点でのリアリティ
陽太に関して感情移入できない点をもう一つ挙げるとすれば、彼の心理的描写が乏しいというところである。
ぶっちゃけ何を考えているのかよくわからない。
麻枝の主戦場であるノベルゲーに対して、アニメという時間制限のある媒体での主人公の独白パートが少なくなるのは自然なことではある。
しかし、それでもまだ「AngelBeats!」の音無結弦、「Charlotte」の乙坂有宇に比べれば自らの心の声が少なさすぎる。
乙坂有宇なんかまさにいい例で、こいつも確かに感情移入しにくいところはあったが、その心の中では駄々洩れなゲスな考え方がウケたのは間違いないし、計算高く思慮深い一面が彼のキャラクター性を確立させていた。
では今作はどうだったかという個人的な考えを。
まず一つ、陽太がガチで何も考えてないアホだからだ。
良いやつだけどやはり何も考えてない能天気な男がやはり陽太なのだ。
伊座並さんへの好意だって駄々洩れだし妹・空への溺愛ぶりも隠さない。
気取らず、わりと常識知らずで、うるさいけど、なんかいいやつ。それが成神陽太。
そして二つ目。
ひなの視点にに近づけようとしているから。
これに関しては妄想かもしれないが、一意見として。
ひなの全知の力は人の感情までは読めない。これがこの作品の違和感であり、切ない点でもある。
ひなの力を以てしても不可能だった代表的なことに恋愛関係がある。
第一話の伊座並さんへの告白。あれはたとえ陽太がホームランを打てていたって成功するわけはない。
その他の描写からも読み取れるように、量子型コンピューターを以てしても到達できなかった現象ということなのだ。
また、第五話の伊座並家の親子の問題も。
あれはかなり巧妙なブラフである。
あの件についてひなは先を読み切った行動をした訳では無い。
杏子もあのビデオを見なければならない。そうしない限りあの親子関係は何も動かない。
それだけのことを判断したまでだ。
だから、ひなは杏子の母を装い電話をかけた後
「これで何かが大きく変わるであろう」そう言った。
そんな抽象的な予想なら誰にでもできることだ。
結果としてひながしたことはただビデオメッセージの所在を誰も悪者にならないような形で伝えたことに過ぎない。
何故なら、失敗に終わるリスクがあったためだ。陽太がそのままに伝えて、それでいて杏子と父の間に亀裂が生じてしまった場合、伊座並家と陽太の間にも溝ができてしまう。そのケアをするためにひなが動いたに過ぎない。
結局のところ人の感情が絡むところは神のみぞ知る。
という、ひなによる自らが神ではないというカミングアウトシーンでもあったのだ。
そういったことを踏まえると中盤までの心理描写はあえて乏しいのかもしれないし、感動要素も薄かった。
結局のところひなは人の心の問題にまで介入することはできなかったのだから。
世界をあくまで外から俯瞰する、それこそ神の視点で。
人の心の内面にまでは踏み込めないのだ。
⑦舞台装置の乏しさ
話は変わって。
「AngelBeats!」は非常によくできたアニメであった。
新しいキャラクターの登場や、場面が変わるごとに校舎のどこにいるのかテロップが入ったりするのはまさにゲーム内画面のようで、とあるプログラムをもとに構築されている世界だという伏線となっている。
「Charlotte」は音楽、色彩設定等が折り重なって作品全体として非常にまとまりのある状態になっている。
日常物、ラブストーリー、超能力バトルが中途半端に同居しているものの、そのバックグラウンドにある世界観が固まっているために作品としてまとまりがあるようには感じ取れる(ことができる)
それに対して「神様になった日」にはそういったものが見受けられなかったように感じる。
というかできなかった。だからしなかったのではないか。
そもそもこの話の主軸は何だ。ジャンルは何だ。
私が加入している「dアニメストア」内でのジャンル分けでは「SF/ファンタジー」となっている。
間違ってはいない。が、SF好きにお勧めするようなことはまずないであろう作品なのは確かだ。
この物語は世界の終わりなどという壮大すぎる前置きをして。量子コンピューターという急展開を起こしかけたあげたあげく、着地点としてあったのは途方もないリアル・現実だ。
だからこそ世界観に味付けはなかった。
少し近未来的な世界観にすれば鈴木少年サイドの話や興梠博士の研究をめぐるフェンリルの暗躍にも立体感が出ただろう。
神秘的な音楽、エフェクトをつければ、前半のひなが神であるというブラフが引き立っただろう。
何もしていないのは、何事もなかったのは、物語の舞台が僕らがよく知る現実に近しかったからに他ならない。
ただの現実だからこそ救いはないし奇跡は起きない。
それがこの物語の根幹だから。
だからこそ前半はこれでもかというほど大げさなギャグを。ここでは特異な存在であるひなが絡んでいることで、日常が大きく捻じ曲げられていくことをアピールしなければならないし、麻枝准の代表的な手法、上げて落とすための布石を用意せねばならない。
それが第7話の佐藤歳徳との邂逅を境に崩れていって、第8話でひなの真実が明かされ、現実へ到達する。
だからこそ、このあたりのスケールダウンは意図的な演出なのだ。
しかし、それが
「なんだこんな話だったのか。」で落ち着いてしまう展開だったのが惜しい。
ここで視聴者たちに
「そうか、これはSFでもファンタジーでもない…現実なんだ…!」
と衝撃を与えられれば良かったものの、「なんだ、そんな話だったのか」というがっかり感を押し付ける結果となってしまったのは大きな敗因である。
⑧ひなの陽太に対しての気持ちはいったい何だったのか
私がこの作品において持った疑問点を提示したい。
まずはじめに、題のとおりひなの心理についてだ。
そもそもひなの全知の力は人間の感情については及ばないという話をしたが、実はそれだけではない。
ひなはそもそも複雑な感情への理解が乏しいのだ。
それはロゴス症候群により、発達しきっていない精神状態に基づく。
そもそもひなの明確な記憶があるのはひなの発言する「神様になった日」、興梠博士によって開発された量子コンピューターが自分の一部となった日からだ。
その瞬間にひなの自我は生まれたといっても過言ではない。
陽太の前に現れたひなの人格、精神は、それから一年にも満たない日数で獲得したものなのだ。
そんなひなが他人、主に陽太と関わりあう中でさらに複雑な感情を持つようになり、最終的に量子コンピューターを失った状態でもその感情を持ち続ける。
また、量子コンピューターのおかげで日常を送れていたひながそれを失ったとき、ありのままのひなを陽太は受け入れることができるのか。
これが本作品ではひなと陽太の間に存在する愛の深さを象徴するのだ。
(その愛がLoveなのかLikeなのかは難しいところではあるが。)
個人的にはこの物語の最大にのめりこめるかどうかのポイントはここにあると考えている。この愛の尊さを理解できるかというのはかなり大きいはずだ。
はずなのだ。というのも、私自身も理解はできていない。予想しているだけでしかない。
何故ならひなが陽太を好きになるという要素がわからないからだ。
いや、あることにはあるのかもしれないが、その描写が少なさすぎる。
ひなはそもそも陽太の恋を応援しようとする立場のはずであった。
が、これはひなが全知の力を証明して自分を凄い存在と思わせたいという幼心のはずだ。
しかし、第5話の終盤からひなは恋を想起されるような感情を持ちはじめてしまう。
伊座並杏子と陽太の恋路が進展する…ということを想像した瞬間に複雑な感情を抱くひな。
これは次の夏祭り回でも抱く感情だ。
この感情はただ幼心としても説明ができそうな気がする。
いままでそういった存在が居なかったひなのはじめての遊び相手、友人、家族、そういった相手がとられることを寂しく思う…そういったものなのならば。
しかし、そうだったとした場合、その関係性が果たしてその後の陽太との別れそうになる シーンであそこまでの爆発力を産み出せるかというのは不思議なものだ。
はたして、ひなの陽太に対する感情は何なのか。
ここに様々な想像を働かせることは容易だが、決定的な正解に私は辿り着くことができなかった。
そもそも、そもそもだ。
何故ここに疑問点が湧いてしまうのかというところなのでもある。
いままで麻枝作品について、直球の恋愛物語。主人公とヒロインの関係性について直接的に描かれたシナリオは少ないと感じる。
しかし、ここまで大きな違和感は覚えなかった。
また、作品を語る上でこのような繊細な感情を理論立てて語るのは正直野暮な行為でもある。だから普段から特段気にしたことも無い。
しかし、ここまで違和感に、疑問に感じてしまう何かがある。
その正体はやはり、成神陽太の違和感なのだ。
ここでまず個人的な創作物における恋愛論を語らせてほしい。
まず一般的に言われることが多い問題だが
「主人公が魅力的でないラブコメは大成しない」ということだ
これに対して、個人的な考えがある。
それは、主人公が魅力的でない作品では、ヒロインから主人公を好きになる明確な理由が必要になるということだ。
主人公が魅力的であれば、ヒロインが出合い頭で好きになろうと、昔から片思いしていようと、いままで感じていなかった自分の中の好意に気づいてしまおうとも全くの違和感はない。
特別なエピソードはいらない。好きだという前提で話が進んでもある程度の勢いで成立できる。
そして後から好きになった理由が語られれば、物語としての奥行が与えられ、読者はさらに二人の関係性が魅力的に思えるだろう。
しかし、主人公が見ている者の目に魅力的に映らなかった場合、その前提条件が必要となるのだ。
過去に何かがあったのか、現在進行形で起こる何かがあるのか。
そういったものを望んでしまう。そうでなければヒロインが魅力的であればあるほどに主人公とのギャップが広がり、違和感は大きくなる。
その勢いを成神陽太は産み出すことができなかった。
なおかつ、ヒロインであるひなにはとにかく可愛く見せようとする作戦が成功していた。
これが最終的に「感情移入できてないけど、ここきっと泣かせようとしてるところなんだよな…?」という強烈な違和感を以てとどめを刺しに来るのだ。
逆に言えば感動できた人は陽太のことを好きになれた。またはひなの感情を理解できた者なのだろう。
私はその人たちが本当に羨ましい。
何せ私は4周見た今でも二人の間に多少の違和感を覚えてしまうのだから。
ただ一つ自分を納得させるために思い付いたものだが
鈴木少年が解析した結果にもある通り、ひなの行動というのは演算では導き出せないルートを辿って、結果に辿り着く力がある。
要は逆算だ。
ひなは起こしたい結果に対して、逆算的に選択肢を絞って陽太に行動させていた。
これは麻枝がノベルゲー出身だからこその発想だろうか。
あらかじめあるトゥルーエンドに向かって逆算的に正解を導き出す。
まさしくシナリオの神にしかできないことをひなはしていたわけだ。
だからこそ、逆算では予想できない事象として愛という感情があるのだという解釈が成り立つ。
愛は突発的かつ必然的、そういうことなのかもしれない。知らんけど。
⑨ひなの父、佐藤歳徳は悪なのか
物語が大きく動き始めるのは、第7話「海を見に行く日」である。
これは第6話「祭りの日」の次ということもあり、麻枝がインタビューでも言った
「祭りの後の静けさ」のはじまりを文字通り表している。
個人的にはこの回が神様になった日で一番好きな回かもしれない。
麻枝作品における意見の衝突であったり、人生観のようなものが非常によく出ているからだ。
さて、ひなの父親佐藤歳徳、実に報われないキャラクターである。
この父親、結果としてひなと離れることになったもののそこへ至るまでにはかなり辛い思いをしてきているはずだ。
ひなのためにあらゆる手を尽くしてきた時間、ひなの母と共に大きな愛を捧げ、家族として懸命に生きてきた時間のはずだ。
その結果ひなの母、自身の最愛の人を失う結果となってしまったわけだが。
陽太が訪ねた時の彼は再婚し、新たな家庭を築いていたが、現在の妻はひなの事を聞いた瞬間何かにおびえるように酷く取り乱していた。
そこに何があったかは定かではないが、一つ言えるのは、妻を失い、再婚したその時までも彼はひなの事を手離してはいなかったということだ。
「かつてのひなが成長していく度、どれだけ私たち家族はそれに振り回されたか」
という発言が物語る。そんな状況でも彼は最大限粘っていたのだ。
しかし、結局のところひなの記憶は興梠博士がひなを預かり、神様にしたあの日からだ。
その残酷さを裏付けるような言葉が第9話にある。
フェンリルの手から逃げ、雨の下、ひなを好きだという陽太に対して、
「じいじ以外にもそんなことを言ってくれる奴がいたとはな」
というあのシーンだ。
そんなわけがないのだ。佐藤歳徳と、ひなの母だって意思の疎通もできなかったひなに、誰よりも一番に伝えようとしていたに決まっているのだ。
それを理解できない陽太。そして覚えておらず、捨てられたと思っているひな。
佐藤歳徳は悪ではない。かといって陽太も、ひなも悪ではない。
誰も悪くない。だからこそ報われない。この話は美しく、残酷なのだ。
⑩この作品が伝えたかったことは
麻枝作品には何かしらのメッセージがある。だからこそ人の胸を打ち、それを道しるべとして生きる人がいるのだ。
今回の作品においてのメッセージは何だったのか。それはもちろん最終回に込められている。
「これから待つ未来は、想像もつかない。
どんな救いもない、奇跡も起こらない、残酷な世界かもしれない。
それでも僕は、精いっぱいひなと生きていく」
このラストシーンに尽きる。
この物語を通して、陽太が気づいた、自分の生きる理由。
そして視聴者に訴えかける最大のメッセージだ。
これは今までの麻枝作品に対するメタでありつつ、かなり切実なメッセージだ。
麻枝は2016年に病に倒れた。心臓移植を受けなければ死に至る。
そんな状態から、麻枝は病と闘い、生き抜いた。
そこから復帰を果たしての今作だった。
心の底から嬉しかった。
それから「神様になった日」までにも楽曲の提供等はあった。ヘプバンの発表もあった。
どれもこれもうれしかったが、やはりアニメにも特別な思いはある。
毎週麻枝の新作脚本が影像で見れる。メディア露出も増える。
今回のために設立されたブロマガ「麻枝准研究所」は「月刊 麻枝准」ともいえるような内容で、更新を毎回楽しみにしていた。
作品も、野球に映画、作曲、麻雀、と序盤の麻枝の趣味を詰め込んだ話は、麻枝の生き生きとしている様子が感じられた。
作品内で示唆されたKarmaというのは麻枝が以前に作った楽曲であり、ファンサえぐいなってかなりアツくなった。
作品発表からの日々は私個人としては本当に楽しいものであった。
そんな中、放送期間中に麻枝は自身のTwitterアカウントを消した。
一時はどうしたものかとかなり心配したが、最終回の公式放送では鳥羽Pが生存報告はしてくれた。
そしてそれは最終回終了後に確信へ変わった。
こんなにも力強いメッセージを残してくれた人間が、大丈夫じゃないわけないよね。と
だから私は、麻枝准の新しい報せを、新しい作品をこの先もずっとずっと待ち続ける。
最後に
今回の「神様になった日」は正直今までの麻枝の新作のなかでもトップクラスといっていいほど期待の集まった作品であった。
無事に放送が終わって本当に良かった。
感想として、期待外れ、そんなこと思わなかったといえば嘘になってしまう。
しかし、今までの作品のエッセンスが散りばめられ、新たな挑戦も含んだ麻枝准の記念碑的な作品には間違いない。
また、これから過去の作品をやった時に今作のことを思い出して、また新たな気づきもあるだろうということを予感させてくれている。
本記事ではシナリオ面以外あまり触れなかったが、P.A.WORKSのアニメーション技術も伴い、画面から目を離せない作品だったし、音楽面も非常に優れたものばかりで、歌詞も読み解けば読み解くほど味が出るものばかりだ。
しかし、それらと脚本が合わさった結果、の化学反応に少し揺らぎがあった。
逆に言えばそれだけだ。
麻枝個人だけを責める理由にはならない。
本記事は私の放送終了後の感想として書いたが、これまでの麻枝作品同様にこれから時が経ち、新たな展開があればまた違う感想が芽生えると思う。
最後に、記事を書いた感想を。
正直、こんなに語れると思わなかった。
超ぶっちゃけると初見時60点くらいだな〜とか思っちゃったし、まぁかるーく800文字感想打って終わると思ってたけど、色々確認しようと思って見返してたらそのまま二周目、三周目って感じだった。
全く芯のない状態で書きはじめてしまったので、まとまりのない意見になってしまったと思うが、今まででいちばん素直な感想がかけたと思う。
結局のところ作品の評価が大きく変わることは無かった。
しかし、かなり解像度をあげることは出来た。
これから別の人の感想を読み漁ったり、語り合うのが楽しみである。
結局のところ、私は本当に麻枝准の作品が好きなんだなと。
そんな自分で良かったなと。
そんな言葉でこの記事を締めたいと思う。
拙い文書でしたが、最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。
また、どこかで。